隠れた「マナー」を思ってみる


今回で、今日まであった違和感が少し払拭できたかも知れないです。他者に対しての「自発的な思いやり」ということが前提の「マナー」の意識がなくなりつつある。そんなことを思いました。そう、思うのは「マナー」という言葉が一人歩きしてしまっているから。本来、「他者に対しての思いやり」の意識を常に持っている状態であれば「マナー」と言う言葉は出てこないような気がするっす。「思いやりの無い状態」が常だからこそ、それを補う為(ごまかす為に?)に「マナー」と言う言葉を用いているような気がします。

「他者に対しての思いやり=マナー」と言う結び付け方は何かを見落としてしまっているのかも知れない。確かに何かをはじめてみなければ、何が、不快にあたるのかとかはわからんので、何が 「思いやり」 にあたるのかは分らんかも知れん。でも、何か を続けていれば、そういうのもわかると思う。自然に。わかったら、他者が不快にならんよう、自分なりの努力をしなきゃならんと思うっす。と、皆が皆、その「思いやり」の心を持ち、それに努めてれば、それが常になり、「マナー」と言う言葉は使われないのではないかな。

今日使用されている「マナー」という言葉は、はっきり言っておかしい。と言っても、ようやく今日になって刺さってた骨が取れた感じなのだけども。「マナー」という言葉を使い、その概要を「周囲に対しての思いやり」と捉えているわりには「マナー」という言葉を使用してしまっている現状に疑問を持たない。あっしも含めて。「自発的な思いやり」に該当する言葉が実は無いことに気付いた。後で触れるけれども、あっしなんかが使っている「マナー」は「受身」に過ぎないような気がする。

最近の「マナー」はどちらかと言うと、「ルール」に近いような気がする。その割に大人(年配者)なんかは、「ルール」と「マナー」を都合のいいように分けて考えているように思える。若者も若者で、「ルール」と「マナー」を一緒くたにして考えてるきらいが感じられる。あっしには。あっしの考え方は残念ながら、後者です。「自発的に決まりを守ることで、思いやりになる」 とかそういう風に考えているらしいです。普段、そんなこと思ったことないですよ。でも、よくよく考えてみるとそうなのかなと。というのは、↑の「マナーに対しての違和感の原因」を考えつく前にこっちの考えてて、これから書くことを箇条書きにしながらメモってたので。でも、前者よりはましだと思います。「マナー」という言葉を用いて考えるのであれば。

「マナーだから違反しても特に問題ない」と捉えるか、「マナーだから守ろう」と捉えるか。どちらも正しくは無いのだけど、どちらかと言えば、後者の方が望ましいように思う。少なくとも、こっちのが「思いやり」の意識はあると思うし。と、こういう意識を持つことにより実害を防ぐことはできるかも知んない。完璧でなくとも。それだけでなくて、ルール化の予防にもなるだろうし。とは言え、やっぱり「これが良い」とも言えないような気がします。

近頃では喫煙がルール化されつつありますよね。自己に留まらず、周囲にも害が及ぶのがネックになったような気がする。はじめから喫煙者が、周囲に害が及ばないように努めていれば、ルール化されなかったように思える。このまま行けば、全面禁止になるかも知らん。「マナーを守る意識が薄かった結果」とも言えるかも知れない。昨今の煙草ルール化。あっしはね、実害があろうが個人で煙草を楽しむのは良いと思います。周囲に被害がなければ。至極個人的な思いですが。

何でもかんでも、「禁止」としてしまう現在の傾向は非常に疑問です。それこそ「思いやり」の意識なんぞ見当たりません。「周囲に迷惑掛けとる輩を思いやる必要なんぞない」と考えることもできますが、それで良いのでせふか?何とかして、「吸わせてあげたい」と考えるのが、本来の「自発的な思いやり」のような気がするのですが。いや、時と場合によりますよ。医者から禁止されてる状況で「吸わせてあげたい」は「思いやり」とは言わんでしょうし、実害があるのに「吸わせてあげたい」もやっぱり違うと思うし。でも、「迷惑だから吸うな」と「実害があるから吸わないで」とは違うと思う。「迷惑だから吸うな」が本来の「自発的な思いやり」だとはあっしには思えない。こういう気持ちは「マナー」が生み出すものだと思います。

「自発的な思いやり」を持ち得ていれば、実害の無い煙草 を創ろうと努力するかも知れん。なんかビールみたいだけども。望むべくは 「自発的な思いやり」であるにも関わらず、「マナー(自発的に決まりを守ることで、思いやりになる。という意識) 」で考えてしまってることがこういうところからもわかるような気がする。・・・あっしも注意せんと。でも、「マナー」でもできることはあると思う。

~ここから偏見混じり~
あっしはね、「マナー」により、実害が出る可能性を減らすことはできるんじゃないかと思うんです。と、ルール化されにくくもなる。「実害がなければ、ルール化はされない」というのが最近の常ですし。まあ、これもおかしな話ですが。こういう実害が出るまで「ほっとく」ような考え方が年配の方々には蔓延してるように思えるなあ。だから、「マナー」のなってない利用者、使用者はルール化など望んでいないというのに、己にマナーの意識が無いばかりに実害が生まれ、「ルール」となってしまうんでないかな。

「マナー」の意識がルール化を防ぐ。ルールを望むのは(ある物、事柄においての)「マナー」を守っている使用者・利用者及び、不使用者・不利用者。ルール化されて苦労するのは、(ルールを望んでない)「マナー」意識の薄い使用者・利用者なのにねえ。ルール化を防ぐ為の「マナー」であるというのにその意識すら低い為にルール化されてしまう。こういうの年配者な方ほどその傾向が強いように思えるっす。

「マナーだから違反しても特に問題ない」とか。そんな風に考えられてる方が多いように思える。まあ、本来は「マナー」であっても困るので、「遵守」を望むのはおかしいのだけども。とは言え、「厳守」の意識は持つべきなんじゃあないかな。ルール化される前に。「ルール」を望むのは誰か。(ある物、事柄においての)使用者・利用者は、不使用者・不利用者が常にルール化を望んでいる可能性があることを意識しておく必要がある。繰り返しになるけれども。別にケータイに限らず。何でも。

その上で「マナー」を考え直してみてはどうだろう。ここいらへんは若者にも言えると思うっす。27歳が若者かどうか知らんが、あっしも含めて。「マナー」を遵守するという考え方。こういうのが若者の半分を占めているように思える。

本来、持ちうるべきは「自発的な思いやり」なので、「遵守」という考え方も実はおかしいと思う。こういう考え方が「禁止」を促しているように思えるので。ここいら変は学校等で教わる内容にも問題があるのかも知らんが、「ルール」と「マナー」を分けて考えられるように教わった若者がどれだけいるのでせふか。少なくともあっしは、一緒くたに考えていたようです。自発的といいながら、受動的になっている現状に気付きませんでした。

「ルール」と「マナー」を一緒くたに捉えていた場合に「遵守」という考え方に繋がるような気がする。で、こういう考え方が大人(先生等)から若者(子供さん含む)に伝染しつつあるのが現状に思える。と、「遵守されるべきものを守らないなんておかしい! だったら禁止してしまえ」みたいになってしまうんでないかな。決まりに従って、ただ守ってるだけだと「決まりを守らない理由」なんぞ考えようともしない。基本的には個人の我侭なのだろうが、こういうのが「違反者には罰を!」みたいな考え方を生む原因に思える。なんとな~く おかしくないですか。こういうの。予防であることは認めますが、本筋からズレてませんか。

「何かを防ぐ、守る為の罰則」でなく、「決まりを守らないことに対しての罰則」になっちゃいませんか。元の「何かを防ぐ」って意識が無くなってはいませんか。あっしは無くなってたような気がするなあ。「何かを防ぐ」が叶えられる状況であれば、多少の「違反」には目を瞑る。そういうのも「思いやり」だと思うのですが。どないでしょう。・・・まあ、こういう考え方はまだましです。良くはないけれども、ましです。最終的に禁止を生むとしても。「マナー」を「遵守」している分、誰にも迷惑はかけてないでしょうから。正しいことは正しいのだろうし。問題なのは「マナーだから違反しても、特に問題はない」とか考えてる輩。若者のもう半分プラス年配者。

若者は年配の方、大人の方、そういう方々を参考にして、取り入れながら自己を形成していくのだと思います。参考にした大人の方が、「マナーだから違反しても、特に問題はない」とか考えてるようでは、校則とか守らない、守らなかったような若者はそれで良いと思うようになってしまいます。きっと。

これはあっしの私見で今書いてきたことよりさらに偏見になりますが、「お願い」の意識が年配者の方は欠けているように思える。もちっと具体的に言うなれば、「自身より年齢の低い方に対して お願い の意識」が欠けているように思えます。こういう方が結構多い。年配の方全てではないです。

「お願い」とは言葉ばかりで「命令」の意思をもって発言してるように思えます。と、多少躊躇しても、平気でマナー違反をするのだろうね。「違反をしたくて、してるわけでなく、仕方なくそうなってしまったんだ」とか自分に言い聞かせて。もちろん、「仕方なく」と言うのが嘘だとは思わないです。理由があるから、そうするんでしょう。でも、黙ってたらそんなのわかりません。口に出して言わずに自分の中だけで正当化して、完結されても誰もわかりゃあしません。こういうの若者が真似れば「近頃の若者はマナーが・・・」とか言われる若者になるんでないかな。

年配者はもっと「お願い」の意識を持つ必要があると思います。自身より若い方に対して。だって、若者は年配者の「お願い」を常に受け入れて「遵守」を試みようとしとるのに、年配者は若者の「お願い」を聞き入れないってのはおかしいじゃあないですか。若者は年配の方の持っている意識を共有しようしてるのに、年配者は若者の意識を共有しようとしない。共有できない。そんな状況。繰り返しますが、年配の方全てではないです。そういう傾向が感じられるというだけっす。

1.明確な理由もなく、校則だからという理由で遵守する学生さん。
2.明確な理由がないからと言う理由で平気で校則に違反する学生さん。
● 明確な理由もなく、校則を押し付ける大人(年配者)。

どちらの場合も学生さんは少なくとも一度は「お願い」を聞こうとしてるように感じられます。2.なんかでも必要があれば守るような気がしますし。違反することを何とも思わないのは●が原因なんじゃないかと。校則違反が良いとはいいませんが、その原因を考え直してみたことがあるのだろうか。

校則って、「お願い」でなく「命令」に思える。と、遵守するという考えが生まれてしまうような気がします。ここいらへん、本来であれば自発的に「厳守」させなきゃならん。なのに、「お願い」でなく「命令」。しかも、「遵守する理由が思い当たらない」となると、2.のような方も「仕方なし」と思えてしまうから怖い。
1.は「決まりを守る」と言う点では正しい。でも、理由とか関係なしに、決まりだから守るという考え方が良いとは思えない。こういうのはあっしの傾向。まあ、それは置いといて、こういうの。大人(年配者) な方が学生さんの意識を一切考えたことがないから、おかしなことになるんでないかな。少しでも学生さんの意思をわかろうとし、その意識を共有しようとすれば、こういうおかしなことにはなり難いかも知れない。・・・全て納得が行くようにはならんだろうけれども。

そこいらへん「お願い」の意識を持ってれば可能になるかも知れん。少なくとも、理不尽な要求であれば、それに気付くことはできると思う。それでも、「厳守」して欲しい事柄であれば、その理由を示すくらいのことはするんでないかな。ところが、こういうの。あっしも含めて、できる人は少ないと思うっす。あっしなんかは1.で育ってるので、普段は理由など考えずに「遵守」してしまうから、理由など示せないし、2.で育ってる方は、納得できる明確な理由(危険だから等)がないと、納得できない理由など示そうともしないだろうし。ここいらへん年配者が「お願い」の意識を持っててくれれば少しは変わったかも知れん。と、そういう「お願い」の意識が「自発的な思いやり」に繋がるのではないかな。これこそが重要なんだと思う。「マナー」よりもなによりも。今日まで気付かなかったけども。

そもそも個人、個人がそれぞれ 「自発的な思いやり」を持ってれば、「マナー」なんて言葉は出てこないんじゃあないかと思います。「自発的な思いやり」がないから生まれるのではないかと。そう言えば、はじめのうちは車内でケータイ使用している方に対して、注視するようなことはなかったし、それが当たり前だったように思えます。なのに、ペースメーカーの話以後でしょうか、急に車内でのケータイ使用に注視するようになったように感じられます。電磁波等による実害がでるまで「ほっとく」のが良いとは思えませんので、実害が起こらないように努力するのは必要だと思うです。でも、「自発的に決まりを守る」ことは「思いやり」じゃあありません。まあ、これは「思いやり」だけの問題でも無いのだろうが。

こういうの、「決まり」があったら駄目だと思うんです。こういう「決まり」こそが「不安」を呼んでいる原因なのかも知れないです。あっしなんかは多分そうです。あっし自身、「決まり」を「遵守」する輩なので、「決まり」が守られてないと特に理由もなく「不安」になります。こういうのおかしいと思うっす。自分のことながら。「決まり」なんぞなく、個人個人が「自発的な思いやり」を持ってれば、「不安」になんぞならないような気がする。その状態こそ常であるべきなんだと、そういう決まりなんぞが表出してこない状況が本当の意味での「マナー」なんだとあっしは思います。・・・こんな当たり前のことにすら気付かなかったあっしは、本当の意味で駄目大人なのでしょうが。と、利用者も使用者も不使用者も。場合によっては製造者も。皆がそれぞれ「自発的な思いやり」を持って「決まり」を表出させないように努力する。そういうのが「本当の意味でのマナー意識」なんではないでしょうか。「自発的な思いやり」を持っていれば、製造者とて何かしらの対策をするんでないかな。自然に。

でも、「決まりを守ることが思いやりになる」と考えているような現状では難しいかも知れない。ケータイのように表出してしまった「マナー」はルール化を防ぐことは出来ても、表に出ない、本当の意味での「マナー」には戻らないと思う。こうなってしまったからにはせめてルール化を防ぐ必要があるんでないかな。現状の使用者は。そのまま車内でケータイを使いたいのであれば。特に年配の方。でないと、そのうちに禁止になります。あっしは別に構いませんが。


・・・・♪♪♪ 車内で携帯が鳴ったとする。

”着信の番号を確かめてみたら、会社からの電話だ。”
”この間の大事な契約の話かも知れない。どうしよう。”

こういう時、自身を正当化して自分の中で完結させて
無言で電話に出るんじゃ無しに


「すみません。少しだけケータイ使用しても(話しても)よろしいでしょうか?」

と周囲に確認を求める。

「構いませんよ」

と返事がかえってくる。まあ、場合にもよるだろうけれども。
こういうのが「自発的なおもいやり」だとあっしは思います。

使用者、利用者の お願い の意識。
不使用者、不利用者の 容認 の意識。

こういうのが「本当の意味のマナー」ではないでしょうか。
無茶苦茶長くなりましたが、以上でコメントの返信とさせていただきます。
しかし、「思いやり」に「自発的」をつけなきゃならんのは考えものだ。


P.S.

使用、利用により使用者、不使用者が危険にさらされる状況の場合、
マナー だなんだとは言ってられないとは思います。
その場合はルール化もやむなしでしょう。
殺されたくはないですし、殺したくもないでしょうから。
とは言え、その理由は明確にして欲しいですが。危険の理由。




今回、自分で書いてても内容がわからなくなりかけたので、言いたいことを下記に要約。
あっしは要約が嫌いなので、普段は行わないのだけど、今回は異常に長いので特別。


●要約
自発的な思いやり を前提とした マナー がなくなりつつあるように思える。
現在、使用されているマナーは「自発的に決まりごとを守ることが思いやりになる」という考え方であり、
本当の意味でのマナー(自発的な思いやりにより守られる意識)とは異なる。
本当の意味でのマナーは安心を生み、信頼を生み、円滑な社会環境を生む。
しかし、現状のような受動的なマナーは不安を生み、不信を生み、停滞した社会環境を生むのでないか。
一度、受動的なマナー が表出してしまうと、本当の意味でのマナーには戻らないように思える。
それでも、ルール化を防ぐことはできる。しかし、これは不使用者、不利用者には関係が無い。
不使用者、不利用者はむしろ 禁止 を望んでいる。
使用者、利用者は常にそのことをこころに留めておく必要がある。
(自発的に)思いやる心がなければいずれは 禁止 を生む。
そのことを不快に思うのであれば、常から 自発的な思いやり を持ち
マナーを表出させないことが必要なのだと思う。
人々のそういう意識がなくば円滑な社会環境は生まれないのかも知れない。



★禁止 という考え方は 停滞した社会環境を生みだす要因にもなりえますね。
 考えてみると。


申し訳ありませんが、明日はコメントの返信しない方向でお願いします。
・・・書いてて疲れました。よって、記事タイトルてきと~です。
これだけ長いと、軽軽の趣旨から外れてしまいますね。反省。(-_-)
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by zetumu | 2005-03-08 02:31 | 一言いろいろ
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