勧善懲悪とゲーム

ヒーローものゲーム、子供の攻撃性増加の可能性

ゲームを「遊び」の範囲内でおさめられるかどうか かなあ。「敵意」がどうのって考え方はしたことが無かったっすねえ。あっし個人としては漠然と「仮想と現実の区別をつけすぎていること」が原因となって今の世の事件やら何やらが起こっている みたいに考えてたのですけど、そんな単純でもないみたいっすねえ。ただね、勧善懲悪のゲームが悪いかって言うとそうでもなく、こういうゲームで遊んだ際に「暴力が正当化されてる」とか思うこと事態に問題があると思うのだけれども。水戸黄門とかああいう、勧善懲悪な劇とかを見た際に「暴力が正当化されてる」と感じるかどうか。個人的にはそんなこと思って水戸黄門見たことはあまり無い。全く無いわけでないけど、それも大人になってからだし。「暴力が正当化されてる」って考え方は「間違った暴力が正しいとされている」ってことっすよね。勧善懲悪な劇とかを「間違った暴力」と考えるところに何やら問題があるような気がする。何だろう

勧善懲悪=暴力により「善」が「悪」を懲らしめる
でも、「暴力」は間違ってるし、「悪」だとは理解してる
でも、勧善懲悪は正しい行い → 「悪」に対して暴力を振るうのは正しい行い
→ 相手が「悪」なら何をやっても自分は正しい

こんな感じ?世迷言ですが。どうだろう。勧善懲悪の「懲」の字を勝手に「暴」の字に変換してはいないだろうか。何故なんでせふかねえ。「悪」=「敵」 「善」=「味方」 とかそんな風に考えてたりして。いや、世迷言ですけど。でもね、「悪」はともかく「善」ってのは非常に判り難いし、曖昧なような気はする。「善行」とかそういうの。実際よくわかってないんじゃないかと思う。これはあっしも含めて。あっしが偽善者を名乗るのもここいらへんが理由だし。あっしのようにたとえ「善いこと」であっても、そう考えることが出来ない駄目大人が、「勧善懲悪」を「暴力の正当化」と考えさせてしまう原因になってるのかも知らん。基準が曖昧だと、何をやっても、「善」にも「悪」にもなれるだろうし。まあ、元から基準ってのが無いのが難しいとこですけども。でも、一昔前には目には見えなくともそういうの何処かにあったのではなかろうか。20代後半な私には感じられないだけで。「善いこと」ってのが判らなくなってきていて、実際には失われているわけでもないのに、失われているように感じてしまう。そんなあっしのような駄目大人が「敵意」を作ってるような気もする。少し考えを改めにゃあならんかもね。まずは偽善者を名乗ることを止めるべきなのだろうけれども。まだ当分は難しいかなあ。記事中では勧善懲悪(暴力を正当化する)ゲーム(ソフト)が敵意を高める原因に関して、「かっこいい正義の味方だと、プレーヤーが自己同一視しやすいため」と書かれています。坂元教授という方の分析だそうです。あっしも首肯します。自身の中に善も悪も基準など無いから簡単にそういうことができてしまうのだろうね。あっしも注意しなくては。でも、記事を読むと書かれてるけれども、暴力描写の高いゲームが逆に攻撃性の低下に繋がる場合もあるらしい。たぶんこういうゲームソフトってのはあんまり「善」とか「悪」とか悩まずにサクッと遊んで、自身の攻撃性を代替的に満足させることができるからなのだろうね。「ゲーム(ソフト)」で「遊ぶ」のと「ゲーム(ソフト)」で「ロールプレイ」するのとはどこかしら違いがあるのかも知れない。今度よく考えてみよう。
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by zetumu | 2005-01-07 12:55 | 一言いろいろ
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